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三代の粉

祖父から父へ、父から子へ、こだわりの八十余年。

私ども小城製粉は、米穀粉業界のなかでも、ユニークな存在と言われることが多い会社です。
と申しますのは、普通は「素材メーカー」から「製品製造メーカー」へと付加価値の高い方へと発展していくことが多いこの業界にあって我社の歴史はまったくその逆をたどってきたからです。

 その流れは大正2年(1913年)に「のせ菓子舗」を母方の祖父、能勢 忍が現在の地、隈之城(鹿児島県薩摩川内市)に移転したことに始まります。
ついで私の父、勇一(現会長)が、のせ菓子舗の婿となり菓子の修行につとめ昭和22年(1947年)には「めん工場」を新設。独立をはかりました。当時はまだ物がなく「めん」を作りさえすれば売れていく時代であったということで、父の工場はすぐに軌道にのり、そのまま順調にいくかと思われました。しかし、意外な落とし穴が待っていたのです。

忘れもしません。昭和27年10月。めん工場が火事に遭い、全焼してしまったのです。
当時、まだ小学校に上がる前だった私の目の前に広がる真っ黒に焼け落ちた工場の姿は今もなお生々しくまぶたの裏に残っています。
工場の再建について父は、祖父の能勢忍の助言を求めました。祖父は米穀粉の道をすすめました。つまり「のせ菓子舗」で使う「和菓子の粉」を造れ、というのです。将来、お菓子屋さんに喜んでいただける粉屋になるという先見性だったのでしょうか。この時二人の子供をかかえる父・勇一は、和菓子の粉造りの修行を一からはじめ、ついに小城製粉のスタートが切られることとなったのです。

幸いな事に川内市には、九州第二の川である川内川があり、落雁粉や糯煎粉を造るのには最適な環境でした。
この地で私ども小城製粉は地域特性を生かした商品の開発につとめ、昭和45年には九州で唯一の寒梅粉製造を手がけることもできるようになりました。ありがたいことに、これは今では我社の主力商品のひとつまで大きく成長いたしております。

さて、ようやくこうして基礎固めができた我社に、ある日、営業よりひとつの課題が持ち込まれました。

皮を剥いた山芋をお届けしているお得意様より、とろろ状にして納品してもらえないだろうかというご依頼があったのです。さっそく新商品開発に取り組みましたが山芋のすりカスや漂白剤が残ったり、時間が経つと褐色に変化したり・・・これがなかなかの難題でした。国の研究機関や県の保健所などに何度も足を運び全社を挙げて研究に研究を重ねた結果、ようやく完成したのが「糖入り冷凍丸芋」です。
その後この山芋加工がきっかけとなり、今では山芋の契約栽培にも成功。川内の土地で育てられた山芋は良質の原料供給の源となっております。

もうひとつの主原料である米についても精米・洗米・乾燥に科学的要素を取り入れ製粉を行っ
ています。洗米後も自然なままの水分を残すために、独自の方法を採用。多彩な米のバリエーションとともに、お客様に広く喜んでいただいております。

鹿児島県薩摩川内市

さらに最近では、祖父の助言どおりに原料素材開発より一歩すすみ、菓子の開発販売もはじめました。ほんの一店舗ではありますが「のせ菓子舗」で蓄積された技術を生かし、新しい和菓子の商品開発に挑戦しています。
菓子造りの技術習得の為の短期研修や長期研修も実施しており実践で役立つ研修モットーが評価されたのか、社内スタッフだけでなく菓子店の息子さんで修行に来ている方もいらっしゃいます。

日本の南に私どものような、ちょっと一味変わった、素材本位の粉屋があってもいいのではと考え、精進を続けてようやく八年。これからも原料へのこだわりとお客様の笑顔を第一に日本文化の一つである和菓子造りに邁進していきたいと願っております。